「死ぬ瞬間の5つの後悔」という本を読んで思うところがあったので、メモとして残しておきます。
死ぬ瞬間の5つの後悔
みんな死ぬのが怖い
誰だって死ぬのは怖いです。
「死ぬ瞬間は痛いのか」とか「できれば苦しまずに逝きたい」とか、死ぬことに対して少なからず恐怖心を抱いています。
国や文化によってその度合いは違うでしょうが、人間には少なからず死に対する恐怖がある。
さすがに恐怖心がないとなると、危機管理が一切できなくなりますから恐怖心は人間に備わった生得的な本能といってもいいでしょう。
ただ死生観は国によって様々あると感じてて。
死生観を大まかに分けると、死を当たり前のものとして捉えている文化圏と死を非日常的なものと見做している文化圏の二つがあると僕は思うのです。
死との距離感
これはどこで分かれるのかというと、死が日常生活のすぐそばにあるかどうかってところ。
治安とかもそうですし、メディアが死を扱っているかどうかも関係してくると思います。普段どれほど死が間近にあるのかってのがポイントになって。
要は、人間は死ぬものなんだと体感的に理解しているかどうかで死生観は分かれるということです。
まぁそんなことを言っている僕だって、直接人が死んでいる姿なんて1回しか見たことがありません(これはいつか別の記事で書こうと思っていますが、かなりグロかった)。
それ以外だと祖父が幼いころに亡くなった経験くらいしかないわけで、それにしろあまり記憶がないので、死との距離感は遠いです。
で、僕もそうですけど、死との距離感が遠くなれば遠くなるほど死ぬのは怖くなります。
慣れって言うんでしょうか、こういうの。
例えば、生き物を殺して食べるという行為を見れば分かりやすい。
スーパーで切り分けられた牛肉を買って食べる人と、直接生きた牛を解体して食べている人では、当然ながら生物への感じ方は違ってきますよね。
多分直接命と触れてこなかった人は、命との距離感が遠く生き物を殺すという実感がわかないので、生物が死ぬ瞬間を見れば「かわいそう」とか「痛そう」とか自分の想像の範囲内で命を語ると思います。
逆に直接命と触れてきた人は、他の命を食べることで自分が生き延びるというシンプルな道理に気付いているので、そういう行為を当たり前のこととして享受しているでしょう。
まぁそこに答えはないですけど、こんな風に命とどれくらい距離が離れているかで感じ方は違ってくるわけです。
想像力が恐怖心を生み出す
で、上記で見てきたように死ぬことを臆病に思うのは生死に対してリアリティがないから。
死を考えるときに、想像力で補うしか手段を持っていないからです。
つまり、想像力が恐怖心を生み出して臆病にさせていると言えるでしょう。
そこらへんに死人がいたら、死ぬことは日常の一部になりますからね。死を非日常と見なしている文化圏と言ったのは、そういうことです。
で、これは結構色んな場面で体験すること。
例えば、新しいことを始めるときなんか。
新しいことを始めるときはどうしても不安で不安で仕方がないという状況になりやすいですけど、意外とやり始めてみると大したことないじゃんって思う事って結構ありますよね。
これは将来に対して起こりうるだろう出来事に対して自分の想像力が働いている状態です。
行動を起こすことは少なからずリスクを伴いますから、危機を回避しようとして脳がストップをかけているわけです。
というように、未知なるものや体験したことがないものに対しては想像力で補うしか測れないということ。
死ぬのは多分恐くない
これは僕の想像でしかありませんが、たぶん死ぬこと自体はそれほど恐くないんじゃないかなーと思っています(全く恐くないといったら嘘だし、もしそういう人間がいたら何かしら欠落していると考えていい)。
今まで説明してきたように、過度に恐いと思うのは死そのものを特別視するからであって、日常で接する機会がないからでしょう。
あとこれは個人的な意見ですが、自分のことを特別な存在だと思っているからっていうのもあると思います。
「自分だけは違う」という自意識があるから、死は恐くなると言えます。
「自分だけはまだ死なない」とか「何かを成し遂げるために生まれてきた」と思い込んでいる人ほど、実際に自分の順番が回ってきたときにそう感じてしまうのでしょう。
こう考えると、死を過度に恐れたり臆病になったりするのは、全部思い込みだと言えるのかもしれませんね。
最後に漫画「カイジ」に出てくる兵藤会長の名言を紹介してこの記事を終わりにします。
命はもっと粗末に扱うべきなのだ!命は、生命は、丁寧に扱いすぎると淀み腐る
まぁ、こういわれても僕は自分の命が大切で仕方ないんですけどねw
こんなことを「死ぬ瞬間の5つの後悔」を読んで感じました。
以上。