常識なんてものは所属する団体や地域が変わるだけで通用しなくなる

常識なんてものは所属する団体や地域が変わるだけで通用しなくなる, アンダーグラウンドより
考察
常識やルールに縛られて不自由さを感じている全ての人にこの記事を捧げる。
出来ることなら常識人になりたい、もぐらです。
皆さんどうも。
今回は常識という極めて漠然としている概念と、どうすればうまく付き合っていくことが出来るのかということに焦点を当てて、話を進めていきたいと思います。

常識やルールの定義

世の中には、まして人生にはこれをしとけば正解という分かりやすい物差しやルートがありません。だから皆苦しむし迷うし後悔する。
「後になってああしとけば良かった」「自分がどうすればいいか誰か教えて」というように。
苦しみから逃れるのに一番簡単なのは考えることをやめてしまうことですが、考えることを放棄するというのは、つまり生きることを拒否することと同義なので、みんな苦しみながらも各々の解を見つけるために切磋琢磨します。
形はどうであれ。
まぁ中には、自分の人生を神様に託したり誰かに依存することで事済ます人もいるけど、今回は話の筋とは直接関係ないので、その人たちのことはそっとしておきましょう。
話が逸れました。
で、みなが答えを見つけるために暗中模索した結果どうなるかというと、各々が各々、正解らしきものを持つようになります。
それぞれがそれぞれ、自分なりの理を持ち、最適解と思える生き方を実現させようとするのです。
ある者は自分らしく生きることを是とし、またある者は他人と協調することを是とする。
それについては正解がないので優劣ではかることは出来ません。そのため、僕も基本的には他人の生き方考え方を尊重しようと思っているし、多様性のある方が好ましいとさえ考えています。
しかし、実社会においてはそうはいかない。皆がそれぞれのベクトルを向けば、社会生活をスムーズに営めないからです。
極端な例を出せば、これは殺人の是非で説明できる。もし殺人を良しとする社会になると、誰も安心して暮らせないですよね。おちおち外出もできないし、疑心暗鬼に陥ってしまう。そのような社会になって得をするのは殺人鬼とその支援者くらいのもので、人口から見れば大した数ではない。
よって殺人を良しとする社会に比べると、殺人を許さない社会の方がより多くの人にとってスムーズだということが言えます。(まぁこれは常識の範疇を超えて法律の域にまで達していますが、例として分かりやすかったので)
つまり、社会のルールや常識とは多数決(もしくは既得権益)みたいなもんで、より多くの人(もしくは支配階級層の人間)がスムーズに日常生活を送るためにこしらえられたものと言えます。
つまりつまり、常識やルールが存在する理由は、最適解らしきものをそのグループなり団体なり国なりで共有することで、一種の安定をはかる役割を担っているということではないかと。
もっと言えば、国だと法、団体なら規則やルール、グループなら常識、を敷くことにより安定した生活基盤をはかっているということです。
 常識とは、こういうもんだと僕は考えています。

日本人はとかく常識やルールを重視する

その上で、日本人は良くも悪くも常識を重視する度合いが強いと言えるでしょう。
良くも悪くもと言ったのは、いい意味では常識が公衆道徳や治安の良さに繋がっているからで、悪い意味では常識があるせいでよそ者に対して排他的になるという二面性があるため。
いい面として挙げた公衆道徳を日本人が守るのは、「他人に迷惑をかけてはいけない」という常識が浸透しているからで、治安の良さにしても前と同じ理念を軸に成り立っています。
これは日本人が世界に誇るべき素晴らしい美点と言っても過言じゃない。その証拠に、一度でも海外旅行をしたことがある人は分かると思いますが、海外に行けば嫌でも日本との違いを見せつけられることとなります。
外国に行くと、衛生面や治安が悪い(日本から見れば)のはもちろんのこと、色んなことに対してルーズな点に驚かされる。
僕も過去に6か国を旅行してきましたが、日本ほど治安が良く清潔な国は見つけられていません。それはやはり、日本人が共通して持っている常識の効用が大きいでしょう。
反対に、常識やルールがしがらみを生むことも少なくない。
常識やルールを過度に重んじると、それを守らない人間やその枠を飛び出した人間に対して排他的になるからです。
そして、重んじる度合いが大きくなるほど排他的になり、よそ者を排除するようになる。先ほども書いた通り日本人はその度合いが強い人種なので、この意識も必然的に高いです。
外国人の難民受け入れなんかをとってもそれはうかがえ、日本は”難民鎖国”と諸国に揶揄されるくらい、外国人難民の受け入れに対し消極的だったりします。それについての良し悪しは長くなるので割愛するとして、その背景にあるのはこういった日本人の性質が色濃く反映されていることは疑いようがないと思います。
さらに言えば日常生活に至ってもそれは如実。
学校の仲良しグループに始まり、果ては会社の派閥に至るまで、常識を共有しようとする空気感が根強くあるため、生き辛いと感じる人も少なくないはず。かくいう僕もその中の一人で、あの何ともいえない同調圧力が非常に苦手です。
その同調圧力の正体を紐解けば、「他人と同じでなければいけない」という日本人の深層心理が浮かび上がってきます。日本人は他人といかに違わないかを重んじ、美徳とするので、それに反する者は排除の対象となり、排除の対象となった者はなった者で生き辛さを募らせていくというわけです。
以上を踏まえると、常識がいい面に向かうこともあれば、排他的な方向に行くこともあるということ。日本人は特に常識に重きを置く人種であるということです。

常識は国や組織が変われば通用しなくなる

今まで説明してきたように、常識はある集団にとっての共通概念といえます。逆を言えば、集団の外では通用しないとも。
そしてそれが理解できれば、常識とうまく付き合っていく方法は見つかるし、常識に囚われ不自由さを感じることも減り、生き辛さも多少は軽減できるはずではないかと。
要するに、常識とは絶対不変な真理なんてものではなく諸行無常の価値観に過ぎない、ということが理解できれば後は早い。
具体的な例を出してみます。
僕は今まで転職を何回も経験していて、そのたびに新しい職場で働き、新しい人間と出会ってきました。それ自体は別段自慢することでも卑下することでもないのですが、転職を重ねたおかげで分かったことはたくさんあります。
そして、その分かったことのうちの一つこそ、常識というものが所属する場所によって変化するということ。もっと言えば、常識がいかにもろいかということ。
ある会社では明るくてユーモアのある人間がもてはやされ、またある会社では他人に過度に干渉しないよう求められました。仕事が出来ることが何よりも大切でそれ以外のことは気にしないという職場もあったし、仕事より人間関係やプライベートの交流を重視する職場もあった。
愚痴を言い合いつまらなそうに仕事する人達がいれば、他人に親切な人達ばかりの職場もありました。
そして、その職場が何を重視しているかによって、常識とされているものは違っていた。
今まで僕の中で常識とされていたものは、新しい職場に移るにつれ差し替えられ、革新された。そんなことを繰り返すうちに、嫌でも気づきます。

常識の不確実さに。常識の不安定さに。

そうです、常識とはかくも実体のない虚像なのです。
またこれは国にしても同じことが言える。
 過去に韓国に旅行したことがありますが、その時も常識の違いをまざまざと見せつけられました。何を見せられたかというと、日本では賛否両論のある美容整形を韓国の女性はかなり高い確率で施術していたこと。それも素人目にも分かるほど堂々と。
このことから一つ分かったのは、韓国の女性と日本の女性では整形に対する考え方が全く違うという事でした。おそらく韓国の女性にとって整形というのは、日常生活に落とし込まれた、言うなれば親知らずを抜くくらいの感覚しかないのだと思います。まあこれは単なる憶測にすぎないけど、圧倒的な施術率を見る限りではさして重大な決断を要しているようには感じられなかった。
人種が変われば常識も変わるということです。
 そして常識が変われば、人々の行動パターン・生活様式も変わります

なら非常識になればいいのかというと・・・

ここまで書いてきて、「常識なんて意味ないじゃん、だったら無作法に生きてやろう」と思われた方もいるかもしれません。しかしその選択はあまりおすすめできない。
なぜなら、反骨精神と言えば聞こえはいいですが、実社会においては通用しないからです。通用するのは自分が常識なりルールを作る立場にある場合のみでしょう。
だから大抵の人は、当てはまらない場合が多い。
それをはき違えて非常識に振舞っていると、大きな反発に合うことになる。その証人は僕で、以前勤めていた会社のやり方に納得できず、自分なりのやり方に勝手に変えたら、職場の人間から嫌がらせまがいの扱いを受けるようになりました。
たかがやり方ひとつで大人げないなと思ったものの、古くからいる人間にしてみればそれがとても大事なことなのです。その気持ちは分からなくもない。(嫌がらせに関してはしょうもないんだけど)
だから郷に入っては郷に従えよろしく、その集団のルールは最低限尊重しなければいけないと僕は思っています。
それでも文句があるのなら結局、自分のしたいようにできる場所に移るか、作るしかないでしょう。
非常識に振舞ったところで得ることはほとんどないということですね。

常識と自分の考えは切り離して考える

結論っす。
常識とされているものと、自分が経験や思考から得た解が必ずしも一致するかというとそうではなく、むしろ全く関係ないものの場合が常なので、これを混同してまうと生き辛くなってしまいます。
だから常識を尊重しつつも、自分の出した解は切り離して考えるべき。
これを混同してしまうと、次第に常識を信奉し、傾倒していくことでしょう。そうなれば自分で考える必要がなくなり、常識が神になる。ですが、それだと他で全く通用しない人間になってしまうし、柔軟性に欠ける人間になってしまう。
かといって、常識に反抗すればいいかというと、先ほども書いた通りそれは賢明な選択とは言えない。それに常識を疑えとはよく言いますが、それはあくまで限定的な場面においてのこと。
いままでの常識で解決できない問題が発生した場合などには既存の方法から抜け出す必要がある。
しかしそれ以外では、そのグループが最適と思っている価値観は出来るだけ守るほうが得策だと思います。さもなければ痛い目に合うことは必至でしょう。特に日本では
だから反発するのも利口とはいえない。
そこで結論ですが、常識とうまく付き合うにはどうすればいいかというと、傾倒するでもなく反発するでもなく、適度な距離感を保ちましょう。
常識を尊重しつつも、自分の価値観はちゃんと持っておいて大切にする。そういう態度で臨めば、生きやすくもなるはずです。
そして、可能ならばもう少しだけ他者を受け入れる姿勢を持てば尚良しだし、僕のような同調圧力が苦手な人間も少しは救われるという寸法
結局、常識と共存する道は、適度な距離を保ちながら付き合っていくしかない、と今のところ僕は思っています。
以上
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