どうも。個性派ブロガーもぐらです。
自己紹介もそこそこに、さっそく本題に入りましょう。
皆さんは個性と言われると、一体何をイメージするでしょうか?
特別なもの、突出したもの、抽象的なもの、まあ皆さん大体こんなイメージを抱いてるんじゃないでしょうか。
抱いてないとしたら、おそらくこの記事は役に立たないと思います。なぜならこの記事では個性という言葉に付きまとっている漠然としたイメージだとか、誤解を解くことを主題にしているから。
だからそうであってください。そんなイメージを抱いててくれw
というわけでまあ、今回はそういう趣旨のもと話を進めていくのでひとつよろしく。ではこれから、個性の意味がイマイチよく分からないという方のために順を追って個性とは何かを紐解いていきましょう
Contents
個性とは?
個性(こせい)とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴。特に個人のそれに関しては、パーソナリティと呼ばれる。(wikipediaより)
一応wikipediaに載っている個性についての説明をコピペしてみましたが、正直これだけでは抽象的すぎてわかりづらくないでしょうか。
というより、世間一般で使われている個性という言葉のニュアンスを正確に捉えきれていない気がする。なぜなら、世間一般でいう個性とか個性的とかっていう言葉は、もっと特別で唯一無二なものみたいな使われ方をしているから。
邪推するなら、さも人と違って素晴らしいみたいな選民思想的なものを感じなくもない。
これは多くの人が個性というものを相対的に捉えているからであって、誰かと比べることを前提にしている証拠です。
そして、そこにこそ個性という言葉の意味を分かりづらくしている原因があると僕は考えています。つまり、そこを紐解いてやることで自然と個性とは何かが分かり、漠然としている個性という言葉のイメージが明確になるのではないかと思います。
自分探し
もしかしたら今もそうかもしれないけれど、一昔前に自分探しの旅が流行った。自分が何者であるかという答えを見つけるために、みなこぞって海外に出掛けました。彼ら彼女らは未知の世界にこそ本当の自分がいると信じていた。
ではその人たちは海外に行き、無事自分を見つけることが出来たのでしょうか?
一人一人に話を聞いたわけではないので詳細は知りませんが、おそらく見つからなかっただろうことは容易に想像できます。
海外に行って個性が見つかるなら誰も苦労しません。僕も過去に6か国ほど海外を旅行しているので、海外に行ったくらいで人生は変わらないこと、根本の部分に変化が表れないことは経験的に知っている。
だからこそ言えます。自分探しの旅をしても人格に影響を及ぼすことはほとんどないと。(幼いころなら多少は影響すると思うけど)
確かに海外に行けば、価値観や習慣の違いを知って、より客観的に自分や物事を見れるようにはなるでしょう。しかし、個性とは先ほども書いたように人と比べて見つかるものではないし、ましてや世界のどこかに落ちているものでもないです。個性とは常に自分の中にあり、いくら外に目を向けたところで意味はなく、結局は内側に目を向けなければいけないもの。
自分探しの旅をいくらしたところで、個性は見つからないのです。
ここまでを簡単にまとめると、個性とは、
・人と比較しても意味がないもの
・常に自分の中にあるもの
ということがお分かりかなと。
ある教師の話
個性の意味を紐解くのに、もってこいの話があります。
以前Twitterかなんかで拡散されていたので知っている方も多いと思いますが、ある教師が個性とは何か?について分かりやすく語ってくれているです。その記述を紹介しましょう。
「例えばこのクラスのみんなが『晴』という漢字を書いても線のとめかた払いかたは絶対に同じにはならない。それが個性です。みんなが『晴』と書く中で『雨』と書いて、僕はみんなと違うんだ!すごいだろう!!と言ってもそれは個性とは認められません」という小学校の担任の先生の話はよく覚えている
深く考えだすと難しいんですけど、単純に奇をてらったり皆と違うことをして目立とうとすることが個性とはいえないとこの先生は言いたかったんだと思う。裏を返せば、みんな同じルールの中でも個性は十分発揮されるものだとも取れると思います。
これは共感できる人も多いはず。仮にもブロガーと名乗っている僕なんかは痛いほどこの言葉が胸に刺さる。なぜなら僕も、このブログの前身ブログで奇をてらいまくっていたから。それこそルールを顧みずに雨という字を書き続けていたようなもんでした。
今思うと恥ずかしくて穴があったら入りたいくらい。なければ掘ってでも。
確かに、ルールを破るといえば聞こえはいいんですよね。が、そんなんじゃ誰からも受け入れられないし、本当の自分らしさではない。
僕も以前はそうだったのであまり強くは言えないけど、今なお、目立てば何をしてもいいと考えているブロガーは数多くいる。目立ちさえすればルールを破ってもいい。目立ちさえすれば人を傷つけてもいい。目立ちさえすれば過激な行動も辞さない。そう考えている人間はブロガーに限らず、世の中に存在しています。
でも、少なくともそれが個性と呼べる代物でないことは確かで、それを続けている限り真っ当な評価を得られないのは確実なこと。
つまり、上記の教師の話からも分かる通り、個性とは、場当たり的な行動・言動に左右されるものでもなく、何気ない瞬間(止め方、払い方の部分)に顔を出す性質のものであるということが分かります。
ここまでをまとめると、個性とは、
・一過性のものではない
・無意識で作用するもの
ということがお分かりでしょう。
個性とは香水ではなく体臭のようなもの
以上のことを踏まえると、個性とは体臭のようなものだと僕は思っています。人間一人ひとりに違ったにおいがある様に、個性にもそれぞれに違いがあり同じものは2つとしてない。かつ自身の根源に深く関わり、自分ではその存在に気づきにくいもの。それが個性ではないかと。
反対に後天的に備わる能力が香水みたいなもんで、振りかければみな同じ匂いを纏うことが出来るという意味で近い気がする。なぜなら能力もといスキルとはよっぽど不向きか、才能を必要としない限り誰でも会得出来るものだからです。車の運転にしたって、仕事にしたって、教えてもらえばある程度は誰にでも(特殊な理由でもない限り)出来るはずで、それはまさに外的な要素を多分に含んでいる香水のようなものでしょう。
で、問題なのは、個性とは何かを考える場合、この2つを分けて考えなければならないことです。もし一緒にしてしまうと、個性が何なのかとたんに分からなくなる。
例えば、めちゃくちゃ文章を書くのが上手い作家がいるとして、その人に憧れていたとしましょう。この人のように自分も文章が上手くなりたいと思う。そして次第に書き方を真似するようになって、あることに気づいてしまう。全然真似できないし、作家のように文章がうまくならないことに。
この例のようになってしまったのは、個性とスキルを一緒くたにして物事を見ているからに他なりません。個性とはさっきも言ったように体臭です。同じ匂いを醸し出すことは不可能です。にもかかわらず上記の例では真似できない部分まで真似しようとしているし、一緒くたに考えているのでどこを参考にすればいいか分かっていない。それゆえにこのような結果になってしまったのです。
こんな風に2つを混同してしまう人は多い。すごい人を見て「この人のようなパーソナリティを獲得すれば同じように成功できるんだ」と安易に考えてしまった経験は誰にでもあるんじゃないでしょうか。
実はこれも、個性という言葉の意味を分かりづらくしている要因の一つで。確かにインフルエンサーや成功者に影響される気持ちは分かりますが、参考程度にしかならないのもまた事実なのです。
何回も言うけど、あくまで個性とはその人特有のものなので、そもそも真似なんてできっこない。大切なのは、ないものねだりをすることではなく、あるものをどう使うかになってくるでしょう。そこに気づければあとは早い。
というか、余計なイメージがいっぱいくっ付きすぎだ、個性ってw 抽象的な言葉だからだろうけど、そりゃあ分かりづらくなる。
結論
結論というか、僕の持論を最後に紹介してこの記事を終わりにします。
ここまで散々個性個性と説明してきたわけですが、身もふたもないことを言ってしまえば個性なんてそんなに気にしなくてもいいと思います。個性的でなければいけないという風潮が出来上がってしまっているので、みな何よりも個性を重視しがちですが、放っておいても勝手に滲み出てくるのが個性だから心配しなくても全く問題ない。源泉かけ流しです。
思い返してみてください。
皆さんだって、他人を区別するときの判断材料の一つに個性を加味していると思います。きっと見た目や名称だけでなく、その人の内側から滲みでているものを感じ取っているはず。そして、それは紛れもなくその人だけが持つ性質のもので無意識に発しているシグナルなんすよ。
少なくとも目立とうとしてバカなことやっているやつを見て「個性的ね」とはならないでしょう。それが答えではないかと。
だからコントロールしたり演出したりなんかせず、素直にかけ流してやればいいのです。
それでこそ個性は際立ちます。
というわけで今回はこの辺で。皆さんの理解を深めるお手伝いが出来たのなら、これ幸い。